Little Players News

No.57 2002 12月

今年も残りわずかとなりましたね。皆さんにとって、どんな年でしたか?

ロマン派音楽 F

バヘハモベウロシュメショシュワブ…

今月はピアノの魔術師と呼ばれたリストです。

リスト

フランツ・リストは1811年ハンガリーのライディングに生まれました。リストの父はドイツ系、母はオーストラリア人であったため、リスト自身はハンガリー人でありながら生涯ひとこともハンガリー語を話す事はなかったそうです。7歳と11ヶ月で初めて人前で演奏して以来、天才の名を欲しいままにしたリストは、演奏会を行うたびに天才ぶりを増していきました。パリ、ロンドン、スイスへと父と演奏会のために飛び回りましたが、16歳の時、父の突然の病死によって演奏旅行は終止符が打たれることとなりました。父を失ったリストは、母と二人での生活のために、たくさんの弟子を教えなければなりませんでした。演奏活動も行っていましたが、リストは自分の芸術とは何かと悩んでいました。20歳の時、リストは衝撃的な出逢いをしました。ヴァイオリンの鬼才パガニーニの演奏を目の当たりにしたリストは「私はピアノのパガニーニになるか、もしくは気狂いになるのだ!」と絶叫し、猛練習に打ち込み技術を磨いたのです。リストはピアノ演奏の表現力を拡大させ、管弦楽においても「交響詩」という新しいジャンルを開拓しました。
驚くべきピアノの腕前に加え、とびきりの美青年でもあったので、パリの社交界の人気者でしたが、晩年のリストは俗世を断って修道院に入り、作曲を続けていこうと思うようになり、常に黒の僧衣で姿を現しました。若き日、貴婦人達を熱狂させ時には失神までさせた華やかさは少しづつ影をひそめ、次第に宗教と哲学の中に静かに自分を見出していくようになり、1886年、75歳でその生涯を閉じたのです。



《師弟関係》

リストは11歳の時、ウィーンに移住し、カール・ツェルニーの下で1年半修業しました。
カール・ツェルニー(1791-1857)は「ツェルニー100番練習曲」などで有名な、あのツェルニーです。そして、ツェルニーはベートーヴェンの弟子だったのでリストはその孫弟子ということになります。ツェルニーがリストを見た第1印象は「青い顔をした少年」で、ピアノを弾くあいだ、酔っているように身体が揺れるので、椅子から落ちないかと心配したそうです。