Little Players News

No.165 2011 12月

師走ですね。残り少ない2011年を楽しく、大切に過ごしたいと思います。

フランツ・リスト生誕200年 ②

リストはオーストリアとハンガリーの国境地帯、ライディングに生まれ、ハンガリー語はほとんど話せなかったそうですが、リスト自身はハンガリーについて、「祖国」と語っていて、強い愛国心を持っていたそうです。
「私は、残念ながらハンガリー語の能力には欠きますが、心も魂も一生ハンガリー人であります。 ゆえに、私は心からハンガリーの音楽の発展に貢献したいのです」   1837年 フランツ・リスト

ハンガリー狂詩曲
少年時代に出会ったハンガリーのジプシー音楽に惹かれたリストは、ハンガリーを訪れた時に熱心にジプシー楽団の演奏を聴いて、その音楽をメモしていたといいます。 その時に集めた旋律や楽想を材料にして19曲のハンガリー狂詩曲が書かれました。 中でも有名な第2番は、私も2009年の発表会で演奏させて頂きましたが、皆さんもきっと耳にした事があると思います。

ピアノはオーケストラ
リストは膨大な数の編曲を残していますが、中でも有名なのはベートーヴェンの交響曲全集のピアノ独奏版です。 ピアノ1台でオーケストラと同じ曲を演奏するのですから、高度なテクニックと体力を要求されます。 中学生の時に、グレン・グールドの演奏で有名な第5番「運命」をレコードで聴きましたが、とても独りで演奏しているようには思えなくて、びっくりしました。 レコードと一緒に楽譜も入っていたので、よく楽譜を見ながら聴いたのを覚えています。

ワイマール時代のリスト
リストは死を迎える晩年を中心にワイマールに住んでいました。 ワイマールは、文豪ゲーテやフリードリヒ・シラー、音楽家ではバッハが活躍した場所で、リストは1848年にワイマール宮廷楽団楽長に就任し、作曲と指揮活動に専念するようになりました。 リストは【交響詩】という新しい分野の創始者でもあり、公私ともに幸せでしたが、結婚ということになると一筋縄ではいかなかったようです。 50歳の時に様々な妨害があり結婚できなかったリストは、修道院に入り、74歳で亡くなるまで神父の黒衣をまとうようになりました。

リスト音楽院
1875年、リストを名誉院長として、ハンガリー王立音楽院(現在のリスト音楽院)が完成しました。 卒業生にはアンドラーシュ・シフ、ゾルダン・コチシュなど優秀なピアニストがいます。 リストは「良い音楽家であるだけではなく、良い人間でなければならない」と生徒たちに教えたそうです。 ピアノを弾くのは、技術だけではなく、日常の生活も大切だという事ですね。