今年は、ピアノを継続して10年目の生徒さんが2人、15年目の生徒さんが1人が居て、せっかくなので発表会ではステージでお花を渡すことにした。あっという間のようでもあるし、思い返すとやはり色々な歴史がある。私も教室を開いてから22回目の発表会。それ以前も特約店に9年ほど勤務した。ピアノは7歳から習って練習熱心ではなかったけれどブランク無く続けている。はじめさんは第1回目の発表会に、ピアノプレイヤーに私が録音した曲から、ギロックの「魔法の木」を選曲して参加した。まさかステーで演奏するとは思わなかったので私の方が驚いた!以来、エレクトーンの人数が少ない時はエレクトーンで参加してもらったりした。

第7回目の時は、初めてコーラスに挑戦した。合唱曲としてメジャーなシューマンの「流浪の民」を選曲したのだが、私自身のリベンジでもあった。ブログにも何度か書いているが、若い時に、ある合唱団の伴奏をどうしても引き受けて欲しいと頼まれて頼まれて引き受けたのだが、とても苦い経験となったのだ。最初の年は、札響との共演で町おこしみたいな演奏会のオケパートの代わりとなる伴奏で、町内外がら募ったコーラスの人数は当初300人程も居ると聞いて驚いた。実際は200名程になったが。当然、バリバリの素人さんも多く、コーラスの指導も大変だったと思う。プロの指揮者が3回来町して私は必死に指揮棒を見て伴奏をした。基板になっていた合唱団もこの努力が生かせられたら、ダレダレにはならなかったのかも知れないが、燃え尽きたのか、元の鞘に戻ったのか…。町おこしの行事が過ぎてから、やはり頼まれて2年間伴奏を引き受けたのだが、私だけの力では根本となる練習もどうにもならない次元の低いものだった。そもそも音楽的センスが対極の合唱団の指揮者の降る棒に合わせなければならなくて、それがたまらなく嫌だった。合唱団の伴奏経験のない私が、いきなりプロの指揮者が相手だった事も強くあったと思う。しかし、いくら私の思いや考えを訴えても、私が若かったから生意気なと思ったのか、全く聞き入れようとしない頑固な人間だった。だからなのか、プロの指揮者が初めて来町した時、練習は全て私の伴奏にかかっているからと言い、楽譜1冊、それぞれの曲について細かく指示を出していった。この事は私自身の良い勉強になったし、今にも繋がっていると思う。教室のコーラスでは、伴奏しながら指揮を担当しているつもりで弾かなくてはならないのだが、音楽的センスが対極な指揮者が降るよりは居ないほうが、遥かに良いと思う。そして、コーラスも第7回の成功がきっかけで今に至っている。

発表会が終わると祭りが終わったような寂しさを感じる。しばし緊張感から開放されてしまうと、ダレダレになるのかも知れないのがコワイ!終わった時からまたスタートしないとね。今年はレヴェルの向上に伴い生徒さんのやる気も上り調子なのだけれど、中には発表会を区切りに辞めたいと言う生徒さんも居る。この生徒さんも今年はびっくりするほど成長したのだが、また新たな練習をするという事に気持ちがついていかないのかも知れない。練習そのものが楽しいものだと思えるような指導を心掛けていても、残念ながら全員には伝わらない…。それでも大きくなってから「またピアノを習ってみたいな」という気持ちになってくれたらと期待している。

みかこ