私たちがフィンランドに訪れたのは1996年2月だが、その年の9月にレコーディングされた舘野先生による武満 徹さんの「ピアノ・デイスタンス」というCDがある。このCDを最初に聴いた時、正直なところよく分からなかった。ふと思い出して、数日前から聴いているのだけれど、すごく良い。どうして、この良さが分からなかったのだろう…。
このCDを聴いていると、左手だけであれだけの音楽を表現できる基盤はすでに出来上がっていたとのだと思いました。偉そうですみません。
舘野先生ならではの美しく透明感のある音が空間に広がり、その音を聴いていると、静寂な世界へと誘われます。CDの解説を書いている横溝亮一氏は、「舘野は否定するかもしないけれど、透明な響きの感覚は、北欧フィンランドの自然の中で培われたものも影響しているのではいか。フィンランドの静寂な中で、武満サウンドの表現感覚を会得してしまっていたのではないだろうか。」と。
舘野先生は、《閉じた目 Ⅰ》と《フォー・アウェイ》が得に好きだということですが、私も同じです。あまりリサイタルで武満氏のピアノ曲を聴いた事はありませんが、横浜フィリアホールで小菅 優さんが《雨の樹 素猫》という曲を演奏したのを聴いたことがありました。プログラムの中に武満氏の作品がこの1曲だけ入っていて、それがかえって印象に残っています。

この数日、「ピアノ・ディスタンス」を聴いていて、もうひとつ、ふと思い出したのは2000年5月に、著書「ピアノ奏法」で知られているピアニストの井上直幸さんとフルートの阿部 博光さんの演奏を札幌で聴いた時の事。その時に書き留めた記事の一部です。
今まで親しんで来た曲が、空間にメロディーの線を織り込む事で、その空間に彩りを与えているのに対して、現代曲は無の領域に様々な音を散りばめる事で空間そのものを作り出しているような気がしました。音楽がイメージの具象化であるとすれば、現代曲のそれは、より直接的なアプローチなのかもしれません。一見突拍子も無いような音が次から次へと飛び出ては消えていく、そんな無秩序な印象も受けますが、それをフレーズとしてではなく、全体が醸し出す印象として捉えると、確かにそこには計算されたイメージの場が作り上げられているような気がします。
惜しくもお亡くなりになったピアニストの井上直幸さん。この演奏会を聴けて良かったなと思いました。

みかこ