幼い頃、1人でバスに乗って岩内に住んでいた叔母に会いにいった。祖父母の暮らす家には2人の叔母がいて、まだ独身だった。岩内に暫く一緒に住んでいて、ときどき両親が迎えにくるのは、職人さんたちとの行事や旅行のためだった。
バスに1人で乗るのが好きでワクワクした。降りるバス停をしっかりと覚えていて、バス停には誰かが迎えに来てくれていた。
ある日、飼っていた猫が死んでしまって叔母が泣いていた。私は何故泣いているのだろうと不思議に思った。私は猫は引っ掻くので好きにはなれなかったのだ。
2人の叔母が家庭教師のようで、幼稚園に上がる前に、ひらがな・カタカナが読めるようになり、おもちゃのピアノでメロディーが載っている小さな楽譜を全部愛奏した。幼稚園になど行きたくないと言い張ったが、リタ幼稚園に入るために強制送還された…!
両親は忙しく、ピアノ教室にはバスに乗って通った。今は、ほとんどの生徒さんが送り迎えをしてもらい通っているので、親御さんのご苦労は大変なものだと思います。
子供のころ、私は走るのが好きで、けっこう速かった。(手前のピンクの服が私)
中学に上がったら、親友のKとバレー部に入ることを決めていたのだが、小6のときに膝を壊してしまった。走ると膝が脱臼してしまうので、走ることもバレー部に入ることも断念した。
母の友だちが洋裁の先生をしていて、生地を選んでよく洋服を作ってもらった。
中学2年生のとき、ドビュッシーのアラベスクの世界に惹き込まれ、先生にピアノの道に進むことを伝えました。先生は、ちょっと意外という表情をしていました。
子供のころ、ピアノを習っている人は少なく、今のように電子ピアノがない時代だったので、そもそもピアノを持っている人が少なかった。
中学を卒業して高校生に上がったら、グランドピアノ(現在、生徒さんが弾いているピアノ)を買ってくれた父親に感謝した。しかし、父はピアノには全く関心がなく発表会にも一度も来たことがなかった。
3年間一度もクラス替えすることが無かったので、担任の若い音楽の先生とも友達のような感じでした。コロナの前に、クラス会のような感じで2回集まったことがあったけれど、男子の変わりように驚いた。女子は、あまり変わっていませんでした。(1列目の右から4番目が私)。